雨が降っていた。
 雨足はそんなに強くなく、雲は厚くどんよりと影を落としていて、静かに蠢いている。日の光もろくに届かない曇天、必要もなければ外出する者がそうないのだから、簡単なフェンスで袋小路が作られたこんな路地裏に至っては、人影などあるはずがない。そんな人気のない場所に、不釣り合いにも幼い少女がたった一人で座り込んでいた。煉瓦造りのアパートの壁は彼女にはいっそう高い、その片側に背を預けて、中途半端に整備されたアスファルトの地面に、ふつうドレスに合わせる厚手の肌着だけを身につけて膝を抱えている。頬は青白く、色素の薄い髪は雨に馴染んでおり、身体が冷えてしまっていることは目に明らかだ。何よりもすっかり疲弊している黒い瞳が心身の限界がすぐそこにあることを物語っているが、一方で強い意志も見てとれた。
 名を結菜(ゆいな)という。彼女の母は貴族嗜好の人で、母を放置しがちだった父はその嗜好に否定的でなかった。―――“貴族嗜好”とは、所得の高低に関わらずその生活様式が貴族的であることを指す。家政婦持ちであるだけでなく、教養、装い、果ては住まいまで、高位の階級のような環境で身の回りを固めているが、所謂「貴族」との決定的違いは、社会的地位も所得も実際のところ一般と大差ないために、きらびやかな生活をするほどの余裕などないことである。結菜の家庭はその典型で、家政婦に家事の一切を任せながらも、収入は端から消えていく状態だった。まだ幼い娘にはその心情をはかることが出来なかったけれど、母は度々身の上を嘆くようなことを言っては結菜に当たり、娘などいるから金がないのだとすら主張することもあった一方、たまの買い物から帰ってきたかと思えば結菜の為のドレスを出してきて飾り立て、可愛い可愛いと誉めそやす。母親のことを理解しようと努めてはいたが、本人ですら感情のコントロールがままならないのだ、結局上手な付き合い方も見つけられぬまま遂に破綻を迎えた。結菜を自分の不幸の原因だと決定づけることで心の安寧を得る手段に結論が至ったらしい、来たこともない街のこんな路地裏に娘を置いて、彼女は一人でどこかへ行ってしまった。多分帰ったのだけど、結菜にはそれを追うための道も、追っていいのかどうかもわからなくて、大人しくここで待っている。おそらくは迎えに来てくれる母親か、背中を押してくれる言葉を。
 衣服は雨を吸い込んで重たく肌に張り付いている。さむい。何度も零しかけた弱音をまた頭の中で響かせて溶かす。さむい、さむい。空腹と寒さで曖昧に限界というものを感じていた彼女は、けれど「死んでしまう」とは考えなかった。本で少し見たことがあるだけでまだ死がどんなことかよくわからなかったから、漠然とした苦しみの深淵にひたすら怯え、それに負けまいと口を閉ざし、体を丸めてうずくまっていた。美璃亜(みりあ)さんはきっと帰って来ていいなんて言わない。だからここにいなくてはいけない。そう胸に繰り返すのは母親以外にあてを見つけることも他人に取り入る生き延び方も知らないからなのだろう、思考はもう発展しようとせず同じところに留まっている。さむい。雨水は着実に体温を奪っている。
 顔を膝に埋めてかなりの時間が経った。寝てしまえたらいい、と思いながら、緊縮した筋肉がそれを許さず意識のやりどころに苦しんでいたとき、ふいに声があった。

「生きてる?」

 男の声だ。結菜には慣れない音だったため警戒から反射的に顔をあげた。若い装いをした肌の白い男がこちらを見下し、なんだ生きてるんだ、と無感動に言う。長い髪は後ろで結わえていて、傘を差していない。育った環境に男性というのはほぼいなかったから年齢はよくわからなかったのだが、父よりは若いように見えていた。彼は続けて親の所在を問うてきて、その馴れ馴れしさに戸惑い立ち上がったものの、結局は心細さに負けてここへ来た経緯を正直に答える。捨てられたんだ、と、はっきりと表現されて結菜は俯いた。その事実は受け入れ難く否定も肯定もできない。雨の音は認めるのを急き立てるかのように耳に響いて、余計に彼女は途方に暮れる。
 しばし返答を待つような間があって、男は次に「うちに来る?」と紡いだ。

「寒いでしょう。」

 その定型句ともいえる労りの言葉は、今何よりも少女を慰めた。緊張がふとゆらぎ、はじめて泣き出しそうになったのをぐっと堪える。そんな様子を察したのか男は軽く結菜の頭をなぜ、行こうか、と表通りを示すように背を押した。「少し遠いけど歩けるね?」決定事項の確認という形に見捨てられる不安を覚え、ふらつきながらも必死に頷いて応える。雲が移ろったのか少し明るくなった道の上、ただひたすら男の歩幅に追いつこうと足を動かした。

 道中、男は喋らなかった。また、息の上がった結菜を見て休憩を取るようなこともなく、彼女はくじけそうになりながら無我夢中で歩いた。この男が、素晴らしい慈悲の人ではないことは明らかだったけれど、だからこそ与えられた厚意が取り下げられないように振る舞うべきだと感じ、「休みたい」などとは言わなかった。しかし男の家までは七歳の少女には想像を絶する遠さで、何にもなければ彼の不親切に心中文句をつけてもよかったのかもしれない。ただ、一度足が縺れて転びそうになったときに咄嗟に服の裾を掴んだ手を彼は払いのけようとしなかったし、その後も掴んでいることを無言のうちに許してくれている。我慢強い子供には随分励ましになった。
 街から郊外へ、やがて森と言って差し支えない場所まで歩き、獣道を辿る。時間の感覚は少女にはなかったが歩き始めて優に二時間は経っている。元々外を歩く機会などなかった結菜の足は当然、かなり痛んでいた。やがて「見えてきた」とささやいた男の声にどれだけ救われたことだろう。声の対象を捜して視線をさ迷わせ木々の間に見つけたのは思っていたような家ではなかったが、それすらもうどうだってよかった。暗い色の煉瓦で出来た貴族嗜好の建物は一人暮らしとは到底思えない規模のものである。男の格好は貴族のそれではなかったから一般的な小さな家を想像していたし、結菜の家が貴族嗜好だったぶん余計に憧れは中流スタイルの家屋に向いていた。到着した家はそれを見事に裏切っていて、結菜は知らないが建築の質も彼女のもといたアパートより高い。そしてすぐわかることなのだが、この建物は決して貴族嗜好向けの集合住宅などではなく、そのすべてが彼の持ち物なのである。まるきり逆だ。疲労で落胆はなかったが、その代わり期待していた喜びも胸に湧かなかった。
 重そうに見える戸は案外軽々しく開き二人を迎えた。

「お帰りなさいませ、」

 偶然通ったらしい若い家政婦がすぐさま駆け寄ってくる。言葉の直前、少女と主に訝しげな視線を寄越したのを男はとくに窘めることもなく、結菜を示して風呂に入れるようにと言い付けた。「僕は部屋に帰るから」左手の通路へ向かおうとするのを家政婦が引き止める。

「使用人の浴室で…?」
「他にどこかある?」
「はい…。……お召し物は如何いたしましょう」
「ああ……、そうだね、誰のでもいいから適当に着せてやって」

 他にも二、三言葉を交わし、すべて済むと今度こそ男は行ってしまった。一息置いて、家政婦に促されて反対側の通路を行く。屋敷には緋色の絨毯が敷かれていたが、そう遠くない場所にココア色の扉があり、そこをくぐると暗い色をしたフローリングの床に変わった。明らかに格下の様相をしたその部屋は食事所なのか質素ながらもテーブルセットが置かれているのに加えて、背の低い戸棚の上には給仕用と思われるプレートやポットなどが並んでいる。使用人のための部屋だというのは先程の会話でわかったが、こんな設備は家にはなかったので不思議な感じがした。
 前方に廊下が伸びており、そこに入ったすぐ右手に脱衣所があった。仕切りに設置されたアコーディオンカーテンは開かれている。小さなマットが浴室の戸の前に乱雑に敷いてあり、単に落ちているのかとはじめは思った。浴槽に湯を入れる蛇口を捻ってきたらしい家政婦はカーテンを閉めずに、先に入った結菜のうしろにつく。服を脱がせようとするので結菜は家政婦を振り返り、「じぶんでできる、」と主張した。相手は少しの間をおいて口元を綻ばせ、足元の篭に脱いだ服を入れるようにとやさしい口調で伝える。「何かお困りでしたらお呼びくださいね」言うと脱衣所を出、カーテンを閉めてくれた。


「………丈を合わせましょうか。簡単に縫い留めますね」

 家政婦は風呂からあがった結菜に持ってきた下着や衣服をあててしばらく逡巡していたが、やがてそう言って予め用意していたらしい裁縫箱を開く。エントランスでは厳しい態度を向けられたものと思っていたが、彼女は大変親切に接してくれた。どうにか調整を終えた服も彼女の持ち物であるらしく、質素である。「余った布がお邪魔でしょうけれど、辛抱してくださいませね」明日にはサイズの合う衣類を用意するように、とも彼女は言い付けられていたから、本格的な加工はしないらしい。結菜には、問題なかった。できれば、新しい服というのにも袖を通したくなかった。待遇からして高価なものを宛てがわれるような気がしていたからだ。
 その日はそのまま使用人用のテーブルで食事を貰い、奥にある空き部屋で休んだ。それも全て結菜を連れてきた男の指示であり、衣類と同じく一先ずの処置であることも言い回しから察することはできたのだが、この七つの少女には意図を汲んでもまだそれらしい予想を立てることができなかったために、翌日からはまた別の部屋に迎えられるとは思ってもみなかった。

「昨日はよく眠れた?」

 はじめに通されたのは結菜を保護した男の部屋だった。ただ、生活空間というわけではないらしく、背の高い本棚とデスク、外套掛けの他には何もない。デスクという一般的な様子ではない、高級そうな木製のニスがけされた机の向こうで彼は椅子に腰掛けていて、それだけでこの屋敷で一番偉い人物なのだということには思い当たる。男は、カジュと名乗った。外国人の顔つきではなかったが、ただ瞳は異様なまでの緑色で、そのことには今日、気付いた。

「君の名前を聞こうか」
求められていることが分からず名乗るのに一拍遅れる。「、静加(しずか)結菜」

 うん、とカジュは受け止めるように微笑みながら、しかし目線を落として相槌を打った。それから次に言うことには、「君にはこれからここで生きてもらう」
 どきりとしたのは、彼の言葉通りの実感が結菜の中にまだなかったからだろう。え、と漏れそうになった言葉はこれまで過ごしてきた家庭のことを思い返して萎んで行く。美璃亜さんは、きっと、帰って来ていいなんて言わない。そうなると新しく住む場所を見つけなければならず、他にはどこにも行くあてなどなくて、つまりはもう、昨日の時点で自分の運命がこの屋敷に鎖されていたのだと結菜は知った。
 少女の動揺をよそに、その上で、と彼は流暢に話を接いでいく。三階の端の部屋で寝起きすること、許可されていない場所には立ち入らないこと。屋敷にいる以上は食事や衣服の一切を彼が保障してくれること。部屋はあとで家政婦が案内してくれるから、それまでは昨夜休んだ部屋にいるように、と。―――家政婦はここまで案内したらすぐに退室したのだが、結菜の服を買いに街へ出掛けたらしい。カジュがその話をしたときに何度か名前を呼んだので、彼女は家政婦の名がニトというらしいことを覚えた。
 生活のことに関してはとくに何も義務を与えられなかった。例えばニトと同じように働きなさいだとかいう同居の対価としての労役から、何時に起きて何時に勉強の時間をとりなさいだとかいう貴族嗜好的な教養まで何も求められなかった。結菜は具体的に何をして過ごせと言い付けを貰う予想はしていなかったし、そういった命令を欲していたわけでもないのだが、それがないことで更に新しい生活が漠然としたものに感じられている。新しい部屋に入って、それから―――?

「最後に、」続く声に意識を戻す。「君に新しい名前を。」

 いいね、“ユイ”。
 このとき結菜には、カジュの意図を汲めない。ただ、その言葉はどうしてか闇が大きく口を開けているようなものに思えた。


リメイク中の未公開作品の一部
20180916



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