川が大きく口を開けている。ように見えた。高校時代何度も通った川だけれど、足を止めて川の深さをはかったことは一度もない。水深とか、どこかに書いてあるだろうかと愛乃は考え、それはプールだけだったような気がして、探すのをやめる。深いことが良いことなのか、浅いことが良いことなのか、今の自分には分からない。鮎が棲むには深い方がいいかしら。雨が降るなら浅い方がいいかしら。飛び込むには、どうだろう。手すりは黒ずんで愛乃には触れない。幼い頃はこれを汚いなどと思わなかったろうに。指先で線さえ結んでみせた。
 水面が太陽にきらめくたび、言いようのない絶望感に駆られる。失望、だろうか。すこし寒気がした。まだ九月に入ったばかりで、気温は高く、今日はとくに風もない、とか、そういったこととは関係がない。だって家に帰って布団に包まったところで暖かくなるとは考え難い。(もう……駄目だろうな)歯止めが効かない思考。ぐるぐると、ずるずると、「家」から連想を始めて、昨日の母の言葉を思い出しては唇を噛んだ。私がダメ人間だから。進学も出来ず浪人なんかして、バイトもしないでこんなところでふらふらと。高校を卒業した自覚が未だにないのかもしれなかった。あんなにきらきらすることも、もうないのに、どうして諦めがつかないんだろう。その場にしゃがみ込み、蹲る。「大人にならなきゃ……」もういい加減。自立、しなければ。いつまでも母親に理解を求めて立ち止まっていてはいけないのだ。今の家族にばかりしがみついていては………。だからといって、他人に愛される自信もないのだけれど。

「――大丈夫?」

 すぐ隣で声がしてはっと顔を上げる。人がすぐ近くにいたことに気付かなかった愛乃は顔を赤くして立ち上がり、だいじょうぶです、と情けなく弱々しくなってしまった声で答えた。「それならいいのだけれど」相手は微笑んでそんなことを言ったと思う。このとき顔は見ていないから定かではないが、後から考えても彼は優しく笑んでいたと、思う。中性的な容姿と格好をしているから実のところ彼が男なのか女なのかわからない。疑問を持つと、女かもしれない、という気がしてきた。くしゃっとなった髪は色素が薄く見える。肌も白く、胸元が広くあけられた七分袖や細いシルエットのパンツは落ち着いた色をしていて、上着とストールはわずかに透き通る布地で、その人には全体的に存在が覚束ない雰囲気がある。声も儚げだった。それだから、次の言葉も何か魔法にかかったようでどきりとした。

「大人になりたい?」
「――え、」
「それとも、大人になるのが怖い?」

 言葉遊びのように捏ねられた問いかけに少しだけ現実感を取り戻す。心の中を見透かされたのだと思ってしまったが、冷静になってみればたぶん、先程の独り言を聞いていただけなのだ。それに気づくとなんだかからかっているようなその人の物言いに気分を悪くし、そうかもしれませんね、とぶっきらぼうに答える。生意気に聞こえただろう、自分でわかって、脈がどくどくと、落ち着かない。一生懸命だね、と薄い唇が評価した。音はとても優しくて、先の愛乃の攻撃的な声を一切気にしていないか、聞いてすらいなかったんじゃないかと疑うくらい清々しいものだ。単純だけれど、不躾なひとだという初めの印象は取り下げるべきだと思い、改めてその顔を見返す。それだけで君には意味がある。すこし振り向いた彼が微かな笑みと一緒にそう言った。そして今度こそ、こちらの胸のうちを言い当ててしまったのである。

「何かやめてしまおうとしているでしょう」

 言い回しは、マイナスの意味合いを孕んでいた。現実を見て、将来を見据えなければと、何か始めなければと思っていたはずで、そうなるとやめることなんてだめな自分のことだけのはずだ。それを否定的に言われたことになるのに、愛乃はひどく安心してしまっていて、不思議な気持ちになりながら肯定する。
「羽根がなくなりそう」おもむろに呟いた相手の手が、こちらの背後の空気をふわりとなぜた。言葉の意味は解らなかったが、儚むような目は愛しい者を見つめるようで、人をどきどきさせるのには充分だ。胸を押さえて鼓動を落ち着かせる。顔に出ないよう取り繕っていたら、変に視線を逸らしたみたいになってしまった。

「少女でおいで。夢をみることをやめてはいけないよ」

 落とされた言葉ははっきりと、まっすぐに、愛乃に贈られていた。やはり意味を汲みきれず困った顔で見返すと、また笑って、「さ、待ってくれないものがあるんでしょう」と。「それはさして恐ろしい顔をしていない。今日はお帰り」細い指が背中を少し辿って、家路のほうへ柔く押す。
 その勢いに突き動かされるようにして、振り返らずに、彼女は帰路を走った。(誰だろう)風に運ばれる綿毛のような小走りで、彼が一体何者なのかを考える。結局男性なのか女性なのかも、服装や容姿、声質は綺麗なばかりで断定できなかった。どちらでもなさそう。どちらでもなさそうだ。息が上がって立ち止まりながら、その存在を反芻して、不思議な人、と声にならない声で呟いた。顔を上げて道の先を見据える。この先に、帰るのが億劫な、目をそらしてはいけない現実がある。家とは、普段の生活区域とはそういうものなのだ、たぶん愛乃一人ではなく、現代人はみな家に帰ることを恐れている。大人になるにつれて自立と責任能力を常に求められて休まらない。一般的なルートを外れるほどに、どこからも白い目で見られるのが現実だと愛乃は思う。それはとても、恐ろしい顔をしている。

「………」

 少し振り返ってみて彼の言葉をもう一度胸の中で唱えた。そうして、少女という単語の意味について考えていた。

未公開作品の冒頭(たぶんボツ)



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